「広島宣言」は被爆地の願いにこたえたのか

[平和]
10,11日と広島市内で開催されていたG7外相会合が終わりました。
今朝、相生橋を渡ると旧市民球場跡地に、まだ、警察車両がたくさん駐車していました。
外相たちの平和公園訪問時には、市内の小学生800人も国旗を振って歓迎したそうです。
関係者の皆さん、本当にご苦労様でした。


オバマ大統領が「核兵器のない世界を」と明言したプラハ演説から、6年余。
核兵器を使ったことのある唯一の核保有国として、行動する道義的責任がある」と述べたオバマ大統領の「行動」に注目が集まりました。それならば、ぜひ被爆地を訪問してほしいと声が広がったことを覚えています。
今回、伊勢志摩サミット開催に先立ち、外相会合が被爆地広島で開催されました。
米国のケリー国務長官をはじめ7か国の外相が、原爆資料館を訪れ慰霊碑に献花を行うというので、関心も高まりました。世界の核兵器1万5千発余りのうち、約半数を占める米・英・仏の外相たちです。被爆の実相に触れて、「核爆弾の発射ボタンを押す」ことがどんなに愚かなことか、万が一を考えれば、保有すること自体も脅威だと認識してほしいと願いました。
ケリー米国国務長官は、「衝撃的で胸をえぐられるようだった」と原爆資料館を見学した感想を述べたといいます。また、オバマ大統領に「訪問がいかに大切かを伝えたい」とも語りました。


こうした被爆地の期待や願いとは裏腹に、今回の外相会合で核軍縮・不拡散について出された「広島宣言」には、失望しました。岸田外相は、「画期的な文書だ」と強調し、市長も県知事も評価するとコメントしています。これで、停滞した核軍縮の国際的な機運を「再稼働させる機会になる」とさえ述べています。
私とて、そうなってほしいという願望はありますが、被爆地が願う「核兵器のない世界」に向けた「画期的な文書」ととてもいえません。
堅苦しい表現で分かりにくい文書ですが、全体的に、核保有国が自国のことを棚に上げて、「不拡散」を強調し、削減義務は果たしているとまで言い張る姿勢にとても違和感を覚えました。


第一に、原爆の被害について「非人間的」な苦難とし、「非人道性」について言及しませんでした。この間、国連の作業部会は、「非人道性」に焦点を当てて、禁止条約などの法的な枠組みについて議論しています。被爆者や市民社会が求めてきたこの枠組みを嫌う核保有国に遠慮した形です。

第二に、「現実的で斬新なアプローチ」という表現ですが、結局、従来通りの「ステップ・バイ・ステップ」=段階的な削減を主張し、廃絶を永遠のかなたに押しやる考え方です。
以前、岸田外相に高校生が「段階的というが、今どの段階か」と質問したら、答えられなかったと聞きました。そんないい加減な段階論です。
第三に、被爆地の願いである「核兵器廃絶」という言葉は、どこを探しても出てきません。
約束してほしいのは「核兵器のない世界にむけた環境を醸造する」ことではなく、核兵器をなくすことです。


保有国と非保有国との橋渡し役と言いながら、どっぷり核保有国の論理にはまっていては、被爆国の使命は果たせません。 
議長国日本政府に対して、被爆地への外相訪問の成果が強調されるあまり、会談の中身について軽視されているように感じます。広島宣言をはじめ、何を議論し合意したのかが問われなければ、被爆地訪問は、単なるセレモニーで終わってしまいます。



最後に、日本政府へ「核抑止論」から脱却すべきと明確に書いた社説がありましたので、一部紹介します。

北海道新聞   2016年4月12日
日本は安全保障を米国の「核の傘」に依存しながら、核廃絶を訴え続けている。その「二重基準」が批判されている。米ロ対立で核軍縮は停滞し、北朝鮮の核開発など核拡散の懸念は消えない。テロ組織への核流出の危険も増大している。
 核抑止論に頼る限り、こうした状況を変えるのは困難だ。日本の立つべき位置は明らかである。来月の伊勢志摩サミットでは、法的規制も含め、核問題のあらゆるテーマを俎上(そじょう)に載せるべきだ。